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上毛町「松尾山に山伏がいたころ」山伏の末裔たち

女子は可愛らしい花柄の着物に赤い帯、赤いたすき掛け、赤い花をつけた菅笠。男子は白装束に赤のたすき掛け、頭には班蓋(はんがい)と呼ばれるかぶり物。毎年4月、松尾山の三社神社で行なわれる「お田植祭」で、友枝小学校の6年生がこの衣装を身につけ田行事を舞う。かつて松尾山に山伏がいたころ、この役は山伏たちが演じていたといいます。

 

修験道は日本古来の山岳信仰と密教や道教などが結びついて確立した宗教です。超人的な験力(神通力)を得るために、山の中で苦行を繰り返す修験者を「山に伏し、野に伏して修行する者」という意味で「山伏」と呼びました。松尾山には、英彦山を中心とする「英彦山六峰」の一つに教えられる修験道場「松尾山医王寺」があり、全盛期には36の「坊(山伏たちの住居)」が存在していたといわれています。

山伏たちは山にこもって修行するかたわら、加持祈祷や薬売りのため、檀家を巡り歩き、里人とも密に交流していました。松尾山の「お田植祭」もそんな里人たちとの深いつながりを感じさせる行事で、豊前修験道最大の祭礼「松会」の中の一部として執り行われていた行事です。

 

松尾山の「お田植祭」は毎年4月19日直前の日曜に開催されます。「色衆楽」は、笛の音に合わせ、締太鼓やビンササラを鳴らしながら、変化にとんだ巧妙な演武を披露してくれます。

 

ところが明治維新の神仏分離政策により松尾山医王寺は三社神社へ転換しました。明治5年には修験道が廃止され、山伏たちの生活様式や文化はことごとく消滅していきました。そんな中でもこの「松会」だけは氏子たちにより守り続けられたが、大正時代には氏子数の減少により、「お田植祭」のみ執り行われるようになり、さらに昭和時代になると「お田植祭」の存続すら難しくなっていきました。

昭和40年代より地元住民や小学校が中心となり松会保存会を発足。昔ながらの形式を留めた貴重な祭事として福岡県の無形民俗文化財にも指定されました。

 

扇形の花崗岩を円形に組み、中央に炉を設けた「護摩壇(ごまだん)」。ここで薪を燃やしながら仏を念じ、呪符を炎の中に投げ入れ、立ち上る煙の色や形を通して種々の祈念をしたといわれています。
三社神社に上る階段の下、二の鳥居周辺で見られる坊跡に積み上げられた石垣。所々に積み上げられ、苔むした石に消えゆく修験者の記憶の風化を感じさせられます。
二の鳥居を横目に山道を登っていくと、昔の石畳が一部残っています。石畳がない箇所は、里に降りた山伏たちが、麓につくる田畑の石垣のために持ち去ったのではと言われています。

松尾山に登ると、今でも坊跡に遺された苔むした石垣や石畳、座主の墓や護摩壇など、山伏たちが生きた証を見ることができます。

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