~エディターOの読書録~ 立ち読み気分でどうぞ。♯3『向田邦子 ベスト・エッセイ』

♯3『向田邦子 ベスト・エッセイ』
向田邦子 著、向田和子 編 990円/ちくま文庫
長期記憶力が非常に乏しい。この事実は黙っておいてもいつか明るみに出そうなのであえて言うが、少しだけ補足しておきたい。抑えてほしいポイントは、「短期記憶力はそこそこある」という点である。私は原稿を作る際に必要な情報のほとんどを、記憶の中から引き出している。取材はメモを取りながら行なうが、後日見返すそのメモは、我ながら驚くほどに雑。真っ白なメモ用紙の中央に「3」とだけ殴り書いてあることなどしょっちゅうであるから、原稿は記憶を頼りに書くしかないのだ。この事実によって、少なくとも取材の後、原稿を作るまでの数日間はかなり克明な記憶を保持していることがわかる。
しかしどうだろう。取材先などで唐突に「最近おすすめの店」などを聞かれた途端、私の頭はスパークし、知っているはずの店の名前が出てこない。タウン誌編集者として「下手な答えはできない」というプレッシャーもあるのだろうが、それにしても記憶力悪すぎ。ウケる。そういったわけで、私は基本的に記憶力が良いすべての人を心底尊敬している。そのうちの一人が、’81年、航空機事故により51歳で急逝した脚本家、エッセイスト、小説家の向田邦子だ。
向田の記憶力が凄まじいことは、彼女のエッセイを読めば明白である。本書は、向田邦子の末妹・向田和子さんが「家族」「旅」「食」「仕事」などのテーマ別に50篇をまとめたエッセイ集。少女時代に過ごした家や当時の生活について、友達が着ていた洋服の色柄、食卓の配置まで…。とにかく詳細な描写を追っていると、彼女の記憶の断片を覗いているかのような感覚にさえなってくる。本書の中でも繰り返し読み返したくなるのは、「旅」編に収められた『紐育(ニューヨーク)・雨』というエッセイ。馴染みのない土地で雨に降られる憂鬱や、じっとりと湿り気のある空気の重み、当時のニューヨークの町並みや人々の営みまでをしっかりと感じさせる文章力に、何度読んでも痺れさせられる。

もう一つ、特に好きなのは「仕事」編に収められている『いっぱいのコーヒーから』。向田が28歳の時、中小出版社で編集者をしていた頃のエピソードが、類稀な記憶の解像度をもって綴られている。コーヒーに釣られて着いて行ったとあるカフェで脚本の制作を依頼され、自身の人生が大きく舵を切っていく…。そんな話の締めくくりは、「この頃の私の財産は健康と好奇心だけでありました」。
日本の文学史に残る偉人と自らを比べることなど甚だおこがましいが、私は今28歳で中小出版勤務。記憶力こそまったくないが、人生を変えるコーヒーの香りに気づける程度の嗅覚と好奇心だけは、磨いていきたい所存である。
●エディターO 千葉県千葉市出身、埼玉県川越市育ち。’21年に突如思い立って福岡へ移住し、シティ情報ふくおかに入社。趣味は読書。クリスマスマーケットは何回行けるかな~!
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