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【インタビュー】映画『架空の犬と嘘をつく猫』より、森ガキ侑大監督が登場。「映画を通して、時の流れを感じ取れること自体が豊かで有意義だと実感してもらえたら」

『川のほとりに立つ者は』で本屋大賞にノミネートされた寺地はるなの同名小説を、江口のりこ主演の『愛に乱暴』が世界の映画祭で高く評価された森ガキ侑大監督が映画化。不完全だけど愛おしい家族の嘘と絆を、30年間にわたる時間の中で丁寧に映し出した。

離れがたく、時に疎ましい家族という存在。愛情だけではくくれない、特殊にして普遍的なこの共同体について改めて考えさせられる『架空の犬と噓をつく猫』は、観る者の胸を静かにざわつかせ、観客それぞれの人生や家族観を振り返るきっかけとなるはず。森ガキ侑大監督に話を聞いた。

 

物事や人間はすべてジレンマと表裏一体。
嘘をつかないと成り立たないこともたくさんあるんです

 

――映画を拝見して、誰しも自分の家族と重ね合わせずにはいられない引力のある作品だと感じました。絆といったキラキラした部分ではなく、家族同士のドライな空気感であったり、もっと生々しい部分の描き方が印象的で。

森ガキ:羽猫家のどこに共感できました?

 

――主人公の山吹と父親が話す場面での目線が合わない感じや、その時の声量、バツの悪い雰囲気などディテールの部分ですね。森ガキ監督は過去作含めさまざまな家族像にフォーカスしてきましたが、テーマとして惹かれる理由はなんでしょうか?

森ガキ:自分自身も「家族ってなんなんだろうな」と、得体の知れないことをすごく考えています。家族がいたことで助けられたり幸せなこともあるけど、家族がいたことで、足を引っ張られるとまでいかないですけど、なかなか自分が素直になれない時とか、居心地が悪かった思春期の時もあるので、そういう意味では「家族とは」といまだに問いかけていますね。家族って一番得体の知れない存在だから、追い求めているというのはあるかもしれません。それでいて普遍的なものだから、家族と夫婦にはとても興味があります。

 

――家族というものは絆のある種の象徴でもあると同時に、本作を観て思ったのは呪縛でもあるんだなと。そこから逃れることの難しさを感じました。

森ガキ:だから自分も気を付けないといけないなと。私は子どもがいるんですが、離れていくと寂しいけど、ある程度自由を与えないと苦しくなる。「こうしなさい」「ああしなさい」と言うよりは、余白がないと居心地悪くなるかなと思います。ある程度の距離感みたいなものは、子どもでも必要なのかなと思いますよね。

 

――原作小説とはどのように出合い、映画化に進んでいったのでしょうか?

森ガキ:『おじいちゃん、死んじゃったって。』という私のデビュー作をプロデューサーの宮川宗生さんが観てくださって、今回の企画に僕がぴったりじゃないかと、「新たな家族像の映画を一緒に作りませんか」とオファーをいただきました。それから寺地はるな先生の小説を読ませてもらったら、もうめちゃくちゃ面白くて。ただ映画にするに当たって唯一ずっと引っかかっていたのが、2時間で30年の時を描くって、チープになるっちゃなるんですよ。それだけが上手くいくかどうか、すごく悩んで。どんな演出ができるか自分の頭の中で何回もトライしてから、お引き受けしました。

 

――原作を読んで面白いと感じたポイントは?

森ガキ:キャラクターがみんなそれぞれ静かに生き生きとしてますよね。ウィットに富んでいるだけでなく、優しさや静かな雰囲気が小説の中にあるのに、キャラクターがそれぞれ少し浮き出ている感じがすごく面白いなと思って。あとは、優しさの中に毒がちょろっとあるというか、ハッピーな話ではないから、その毒気がある感じもよかったなと思いました。

 

――静かなやり取りの中でもセリフの良さが際立っていて、余貴美子さん演じる祖母が「あんたは無駄なものと思うね?」「社会の役に立たないことが、生きていてはいけない理由にはならない」といったことを孫の山吹に話す場面などは、現代社会においても大切な考え方だなと思いました。

森ガキ:今日、九産大の学生たちの前で講演会があったんですけど、「一番大事なことはなんですか?」という質問に私は「近道はないので、無駄をたくさんしてください」と話しました。本当にそれが最もキーになっていると思うんですよね。無駄をいっぱいした方がいいなと。今はAIに問いをやると答えがポンと出てくるじゃないですか。考える狭間や過程がなくなっていますけど、効率的に考えると過程って無駄と言えば無駄で。でも、その過程が一番大事なんです。いきなり答えに飛ぶ世界に変わっていっているので、今後はもしかしたら逆に“過程を楽しむ”こと自体が体験というビジネスになるのかなと思います。みんな体験できなくなっていくから、AIが普及したことによって、過程の体験をお金で買う時代が来るんじゃないでしょうか。

 

――コスパやタイパがあまりに重視されすぎて、いろんなものが削ぎ落されている感覚があります。自分の体験を振り返っても、当時は無駄だと思っていたことが今は財産になっているんですよね。ただ、それを伝えることの難しさも感じています。

森ガキ:大変ですよね。資本主義社会だから、いかに効率よくお金を稼げるかが大事なんですけど、それでたくさんのものを失っている気もするなと思っていて。資本主義のネガティブなところって、資本を追っかけすぎて無駄なものをどんどん排除して、成長が止まっている可能性もあるなとは思うんですよね。

 

――そういった懸念や考えは、監督の前作『愛に乱暴』とも通じるものがありますね。

森ガキ:まさに。模索していますね。でももう、資本主義の限界は来ている気はします。お金を持っている方と持っていない方の分断が加速していて。難しいですよ。

 

――資本を追い求め続ける螺旋の中にいるしんどさも多くの人が感じている中で、本作ではタイトルにもある“架空の犬”と表現されていますが、なにか心の拠りどころとなるものが誰しも必要なんだろうなと。

森ガキ:そうですね。何かにすがっていないと人間はやっぱり弱いし、生きていけないなと思うので、そういったものがあってもいいですよね。

 

――他に、エモーショナルに訴えかけないというか、過剰に盛らない演出や表現は監督の作風や矜持とも言える部分かと思いますが、観客の感情を意図的にあおろうとしない、そういった手法を取らない理由を改めて聞かせてください。

森ガキ:最近の作品は「ここで音楽をかけたら気持ちいいでしょう」など、主導権を握りすぎている気がしていて。それはものづくりとしては余白がない。観客の感じ方を強制的に与えている気がして、感性の広がりがあまりないなと思うんですよね。感動的な音楽が流れて「ここで泣いてください」といったものではなく、選択肢を与えられる方がアートとしてはすごく豊かなものになるのかなと考えています。説明的すぎず、みんな自由に感じ方が違う方が好きです。

 

――それは観客の感受性を信じたいという思いもきっとありますよね。

森ガキ:あります。プラスで、そういう世の中になってほしいなとも思っています。みんなの感受性が減っていくと困るし、そういう意味では抗っている感じもあります。アニメのヒット作とかも、キャラクターの感情を全部吐露するじゃないですか。アニメだったら成立するけど、ふだんは会話していて本心を全部吐露しないですよね。そこはリアリティを追求したいです。

 

――映画に限らず近年のエンタメはわかりやすさが重視されがちで、SNSの数秒で刺さるようにヒットへの動線が作られていたりしますが、そこに対する違和感もやはりあって。作り手がみんなそこを意識してものづくりをしていたら面白くないですよね。ただ、自分のやりたいことを貫いた結果「興行的にはダメでした」ではまずいわけで。先ほどの資本主義の話とまた繋がってきますが、ジレンマがありますね。

森ガキ:ものづくりで効率や資本を追うと、均一化して同じようなものしか生まれなくなっていきます。でもビジネスとしては均一化した方が売上は上がる。映画も「こうやったらもっとわかりやすい」「こうやったらもっとたくさんの人に響く」といったメジャーな作り方はわかっているんですけど、それをやると「もう自分じゃなくていいや」と思っちゃうので。そこのせめぎあいや戦いはあります。

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映画『架空の犬と噓をつく猫』(PG12)

© 2025 映画「架空の犬と嘘をつく猫」製作委員会

架空の犬と噓をつく猫 / 1月9日(金)全国ロードショー

 ’88年、小学3年生の羽猫山吹(高杉真宙)は、事故で子を失った現実を受け止められず、空想の世界に生きる母・雪乃(安藤裕子)のために亡き弟になりすまして手紙を書き続ける。父・淳吾(安田顕)はそんな妻を受け入れられず愛人の元へ逃げ、祖母・澄江(余貴美子)は骨董屋の仕事で“嘘”を扱い、姉・紅(向里祐香)は「嘘と噓つきが嫌い」と反抗。不都合な真実から目を逸らす家族は、それでも寄り添い合っていく。

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