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【嘉麻市】嘉麻に残る大人物の足跡〈2〉~秀吉の”一夜城伝説”が嘉麻にもあった!~

墨俣の一夜城で出世し、天下統一の総仕上げ・小田原攻めでも

一夜城を築いた豊臣秀吉は、九州平定の際にも

嘉麻の地で一夜城マジックを披露していた。

嘉麻市恒例の『一夜城まつり』で現代に蘇る伝説の一夜城。

その種明かしを求めて益富城址へ。

 

 

マジック大成功で秀吉大盤振る舞い!

 

一夜城の舞台は、後藤又兵衛や母里太兵衛が入る前の益富城。時は1587(天正15)年、九州支配を目論む薩摩の島津氏を倒すために、秀吉は島津と同盟していた秋月氏に迫っていました(ちなみに官兵衛率いる黒田勢は秀吉の弟・秀長とともに九州東部の大分・宮崎側から薩摩に向かっていました)。益富城にいた秋月氏の当主・秋月種実は、前線基地の豊前・岩石城という名前からして堅牢そうな城を1日で落とされると、益富城を破却して本拠地・古処山城に引き揚げ、秀吉軍に備えます。

 

 

そこで秀吉は、大隈の町民に篝火を焚かせるとともに、戸板やふすま、畳を集めさせて張りぼての城を急造しました。古処山城から無数の篝火を見て秀吉軍が満ち満ちていると思った種実は、夜が明けると壊したはずの益富城が一夜で建て直されているのを見つけ、これはとても敵わないと、戦わずして秀吉に降伏したのです。この勝利に気を良くした秀吉は、手伝ってくれた大隈の町民に着ていた陣羽織と佩刀を与え、永代貢税を免除しました。陣羽織は『華文刺縫陣羽織』として国の重要文化財に指定されています。

 

一夜城の舞台にもなった益富城は、母里太兵衛の没後に廃城に。城址には石垣や土塁、空堀の跡が残り、周辺は原生林に覆われた自然公園として整備されている

 

また、益富城址には、秀吉が米を滝のように流させて山城でも水が豊富にあるように見せかけたという「白米流し跡」が残っています。

 

 

【一夜城まつり】

毎年10月下旬の週末に、益富城址の麓にある嘉穂プール前で各種ステージイベントや花火大会などが催される恒例行事。祭りの前後約2週間は、秀吉が築いた張りぼての一夜城を巨大パネルで再現。夜はライトアップされ、伝説の一夜城が夜空に浮かび上がる。

 

【憶良ゆかりの地 稲築万葉の歌碑めぐり】

新元号『令和』の出典として注目を浴びている万葉集
嘉麻を訪れた万葉集の人気もの 山上憶良

銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに

勝れる宝 子に及(し)かめやも (『子等を思ふ歌』)

 

遣唐使として唐で学び、726年に筑前国守として大宰府に赴任。その頃、大宰帥(だざいのそち)となった大伴旅人(おおとものたびと)らと筑紫歌壇を形成した。写真:博多人形の山上憶良(公益財団法人 古都大宰府保存協会蔵『梅花の宴』ジオラマより)山村延燁作

 

嘉麻郡で三部作を選定

万葉集に78首もの歌が選ばれている歌人・山上憶良は、『貧窮問答歌』のように庶民の目線に立った歌を多く詠んでいます。大宰府赴任中に嘉麻の役所を訪れた憶良は「神亀5(728)年7月21日嘉摩郡にて選定す」として、嘉麻3部作と呼ばれる『子等を思ふ歌』『惑へる情を反さしむる歌』『世間の住り難きを哀しぶる歌』を詠んでいます。これにちなんで、稲築地区の稲築公園や鴨生公園、鴨生憶良苑などには憶良が詠んだ歌の万葉歌碑がいくつも立っています。憶良の里で、万葉歌碑を訪ねる散策はいかがでしょうか?

 

『役所址』の碑と『子等を思ふ歌』の歌碑
稲築公園の『万葉花壇』に立つ歌碑

 


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