【インタビュー】映画『夏の砂の上』より、オダギリジョーと玉田真也監督が来福。「“自分の人生を変えてくれるような映画”に携わりたい」
生きていく上で逃れられない痛みや苦しみ、それでも人生は続いていくという虚無と人はどう向き合えばいいのか……そんな誰しもがいつか直面する問いに、ほんのひと筋の光を与えるような人間ドラマが誕生。これまでに何度も舞台化されてきた戯曲を原作に、気鋭の演出家・玉田真也が監督を務めて全編オール長崎ロケで映画化した。主人公の治を演じたのはオダギリジョー。脚本を読んだ瞬間に「これは良い作品になる」と確信し、プロデューサーとしても本作を牽引した。治の姪で、治と奇妙な共同生活を送ることになる優子役には、’24年度後期のNHK連続テレビ小説「ばけばけ」のヒロインに抜擢された髙石あかり、治の妻役に松たか子、他にも満島ひかりや森山直太朗、高橋文哉、光石研といった豪華布陣が実現。それぞれが痛みを抱えて生きる姿から、大切な“何か”を感じ取れるはずだ。福岡を訪れたオダギリジョーと玉田真也監督に話を聞いた。

人の中にある、いろんな渦巻いているものって、
共感できるとか「わかるわかる」ということだけじゃない。
共有不可能なものの方がその人自身を表していたりするから
――常に勾配のある坂道を上り下りしながら、子どもを亡くした喪失感を抱えて日々を淡々と送る治の姿が印象的でした。私は長崎出身で、何か長崎特有の空気感、さらに言えばどこか閉塞感みたいなものもすごく感じたのですが、物語の舞台が長崎というのは作品にどのように作用したのでしょうか?
玉田:今、「閉塞感」という話もしていただきましたが、治の家の場合は、人が1人か2人しか通れないぐらい細い道がずっと続いていて、曲がりくねった迷路みたいな道を歩き続けていると、自分がどの方向を向いてるのかわからなくなるような、方向感覚が狂うような感じがあって。すごく閉塞感がある坂道かと思ったら、たまに家と家の隙間から急に空がスポーンと抜けて見えたり、海が見えてきたりとか、そんな2つの顔があるような道になっています。登場人物の人生を表現しているように撮れたかなと思っています。言葉やセリフではなくて、景色など画面に映るもので表現できるのがやっぱり映画として必要なことだと思うので、そういう意味ですごくいい効果があったかなと。
――玉田監督は舞台の作品としても『夏の砂の上』とはずっと関わりがありますが、映画として映像化することによって、映画ならではの表現や挑戦など、いろんなビジョンがあったというわけですね。
玉田:そうですね、元の演劇はワンシチュエーションですけど、部屋の外側にある世界みたいなものはセリフの中でイメージさせてくるという、そういう情報量を持ったセリフがいっぱい書かれていて、それはやっぱり演劇だからだと思うんですよね。演劇はセリフと俳優の身体を使って劇場という空間を支配していくようなものなので、それに適した情報量のセリフが選ばれていると思うんですけど、映画の場合は映るのはセリフとか俳優だけじゃなくて、向こう側にある街とか、人が動いている様とか、風とか光とか、カメラの抜けた先にあるものが全部映ってきて、その映ったものが全部の情報を持って観客に入ってくるというものです。戯曲にはすごく優れたセリフ、強度の高いセリフがいっぱいあったんですけど、その中でどのセリフを選んで、どれをカットするのかというのは、今言ったような演劇だから必要な情報量とか、映画だから必要な情報量ということを考えながら作っていきました。
――今回オダギリさんは共同プロデューサーという形でも作品に携わってらっしゃって、それはプレーヤーとして以外にも、何か俯瞰の立場で「映画作りの現場としてこういったものにしたい」といった気持ちもあったのでしょうか?
オダギリ:「映画作りの現場」というのが何を意味しているのか難しいところですが、「映画作り」という広い意味であれば、もちろんこの映画がたどり着くべき完成形というのは明確にイメージしていました。もしくは「撮影現場」という意味では、作品をより高めるために、何か自分にできることがあればという気持ちは常に持っていましたが、同時に、監督がスタッフやキャストとのやり取りの中で生まれていくものを大切にしてほしいと思っていたので、なるべく余計な口出しはしないでおこうと思っていました。現場に関しては監督にお任せして、僕は役者に徹するだけだったと思います。
玉田:それでも僕はめちゃくちゃやりやすかったです。俳優とのコミュニケーションでも、スタッフとのコミュニケーションでも、オダギリさんのおかげでストレスを感じる瞬間がほぼなかったという感じがします。
――作品の中では、治の夫婦関係も含めて、常に離れない孤独感が印象的でした。
オダギリ:人間は、もともと孤独を感じやすくできていると思うんです。満たされない気持ちだったり、焦燥感みたいなものだったり、そういうネガティブな気持ちって意外と持ちやすいじゃないですか。だから、そういった表現は敢えて出す必要がないと思っています。最初のホン読みの時に監督から「ちょっと治のトーンが暗いかもしれません」と言われたんですが(苦笑)、特に暗く演じようと思っていたわけではなかったんですよね。でもそれが伝わり方なので、現場では必要以上にネガティブな表現にならないように努めました。
――誰しもがそういった孤独を感じるのは普通の状態で、当たり前のもの?
オダギリ:そうなりやすいと思うんです。だから孤独感は、観ている人が自然に感じてくれているんだと思います。

――姪の優子役の髙石あかりさんについても聞かせてください。優子はすごく無色透明かつどこか空虚な印象で、それでも魅力的にも見えるという不思議な存在だと思ったのですが、監督は何か演出をつけるようなことはあったのでしょうか?
玉田:最初にオーディションでお会いしたんですけど、その時点でこのシナリオの一部をやってもらって、その声を聞いた瞬間にもう「この人ならいける」という風に思って、それでオファーさせていただきました。その時に接した髙石さんの素の雰囲気とかも含めてすごくぴったりだと思ったので、必要以上に何か芝居をしようとしなくてもいいと思いました。それが一番難しいことだと思うんですが、「何かをしようとしないでいいと思います」ということをまず伝えた気がします。
――そのまま、思うままやってくれれば髙石さん=優子になるというか。
玉田:そうですね、「表現を必要以上にしようとしなくてもいいんじゃないかな」ということを言ったと思います。素の自分の空気感を大切に、その場に立ってもらえれば。
オダギリ:髙石さんの人間性として、あまり壁を作ったり、人と距離を作ったりせず、自分から何にでも飛び込めるタイプの方だと思いました。僕もそのおかげでコミュニケーションを取りやすかったですし、スタッフともすぐに打ち解けていたので、彼女がいてくれるおかげで現場の雰囲気が自然と高まっていたと思います。
――お二人が演じた、治と優子が雨水を一緒に飲むシーンは作品を象徴する場面のひとつだと思いますが、オープニングも、終盤も水が鍵となる描写として登場します。
玉田:まず、この映画自体が雨が降らない長崎が舞台ということで、雨が降らない=逆に水が気になりますよね。人が生きていくために必要なものがないという感じが。それ故に乾いているという状態がずっと続くんです。加えて、治は自分の息子が亡くなった数年前、大雨の日のまま人生の時間がストップしている。そういう主人公が、いろんな出会いとか別れを経た上で、またあの日と同じような雨が降ることで、次は止まっていたもの、時間が動き出すという、それまでを描くのがこの映画だという風に思っていました。なので、水によって止まり、動かされるということ、この映画の装置として水はすごく重要だと思いながら作っていました。
――治のように、身内や大切な存在がいなくなってしまったり、何かに脅かされるようなことがあって、そういった喪失感みたいなものとどうしても向き合わないといけない場面が人間には多かれ少なかれ訪れます。この作品を通して、何かそういった喪失感との向き合い方について気づきのようなものがあればお聞きしてみたいです。
玉田:この物語は「息子を失った男」というところから始まっていって、いろんなものを物語上で失っていくんですけど、どれだけ失っていっても“生きている”ということはかなりエネルギーがある状態なんです。描かれているシーンの治がいろんな感情を出しますけど、その全部の感情が、やっぱり誰かと繋がりたいとか、繋がりたいけれど繋がれていないからこそ起きる何かを感じるとか、常にもがいてる感じがあって。そのもがいている時に出てくるエネルギーみたいなものが、人が生きていくということだったりもする気がするので、「向き合おう」と思った時に出る火みたいなものを撮れれば、それはすごく面白いもになる気がしていました。そういう喪失感というのもエネルギーで、「生きている」ということのエネルギーが人を描くってことには重要なのかなと思っていました。

――わかりました。最後に、この作品は全体を通して何かわかりやすい答えを提示するというよりも、“問い”として存在しているような映画だなと感じました。近年、いろんなエンターテインメントが、すぐにキャッチできて、理解できて、わかりやすい答えがあってといったものが好まれる傾向にある気がしていて。そういった中で今作は異色にも感じたのですが、今作られるべき映画やエンタメについて考えていることがあれば教えてください。
玉田:映画だけじゃなくて、いろんなジャンルで「共感できる」ということが今すごく重要なキーワードになっている気がして。共感できるから感想も言いやすいわけです。そういうものほどみんなに摂取されやすい気がしていて、それで広がっていきやすいし、そういうものがお客さんが入っていきやすいということはもちろんあると思うんですよね。SNSで100何十字で言えるぐらいのことって、みんなが共感・共有できるようなものだから、少ない字数で伝わるわけじゃないですか。でも、人の中にある、いろんな渦巻いているものって、共感できるとか「わかるわかる」ということだけじゃない気がします。共有不可能なものの方がその人自身を表していたりするから、共有不可能なものを描くということの方が、その人自身を描くということになると思います。共有しにくくても「そういうものって確かにあるじゃないか」と思っていて。そういう作品を作る意味や、どこかにそれが必要な人もいると思うので。僕はどちらかというとそっちを描きたいなと思って、この映画を撮りました。
――簡単に言語化できない部分にこそ本質的なものがあると。オダギリさん、いかがでしょうか。
オダギリ:エンタメはエンタメで必要なんだろうと思います。そういう映画を観たい人はたくさんいるわけですし、何を求めて映画を観に行くかということは人それぞれだと思うので。エンタメを否定するつもりはないですが、「誰に何を届けようとしているのか」ということは見失ってはダメだと思いますね。1本の映画を観て、動けなくなるようなことってたまにあるじゃないですか。受け止めきれない感情が残ったり、心に棘のように刺さるものがあったり。自分の人生を変えてくれるような映画もありますからね。僕はそうした作品に携わりたいと思っています。自分の人生、あと何作品関われるかわかりませんが、今作のように、意味のある作品だけに関わっていこうと思っています。
映画『夏の砂の上』

夏の砂の上 / 7月4日(金)全国ロードショー
雨が降らない夏の長崎。幼い息子を亡くし心に傷を負った治(オダギリジョー)は働こうともせず、妻の恵子(松たか子)とは別居中。ある日、治の妹・阿佐子(満島ひかり)から17歳の娘・優子(髙石あかり)をしばらく預かってほしいと強引に押し付けられ、治と優子の共同生活が始まる。父親の愛を知らずに育った優子が懸命に父親代わりをしようとする治との生活に慣れてきた頃、優子は治と恵子が口論する場面に遭遇し…。
