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【嘉麻市】嘉麻に残る大人物の足跡〈1〉~母里太兵衛~

*本記事の取材は緊急事態宣言前に実施されたものになります。宣言解除後のおでかけ先候補としてお楽しみください。

 

母里太兵衛

母里友信(通称太兵衛)。播磨時代から黒田孝高(官兵衛)に仕え、孝高の意向で栗山利安(善助)と義兄弟の契りを結ぶ。黒田家の筑前入り後、鷹取城(直方市)城主となり、後藤基次(又兵衛)の出奔後、益富城(嘉麻市)の城主となった。(福岡市博物館所蔵)

 

 

嘉麻にある後藤又兵衛と母里太兵衛の足跡

JR博多駅の前で大槍と大盃を持って立っている迫力がある武士の銅像、誰だかご存知ですか?よく間違われるようですが、福岡藩初代藩主・黒田長政公ではありません。彼こそが、福岡県を代表する人気の民謡『黒田節』に歌われた黒田武士・母里太兵衛その人なのです。

 

黒田節の銅像(JR博多駅前)
JR博多駅前に立つ母里太兵衛の銅像。太兵衛の銅像は黒田官兵衛・長政父子を祀る光雲(てるも)神社にもあり、大身槍『日本号』の実物が福岡市博物館に展示されている

 

少年の頃から黒田官兵衛に仕え、黒田家の精鋭・黒田二十四騎の中でも特に選りすぐられた黒田八虎の一人に挙げられる母里太兵衛。彼が官兵衛の跡を継いだ長政の使いとして、福島正則の元を訪れた時のこと。太兵衛は酒癖の悪い正則に酒をすすめられました。太兵衛自身は家中で”フカ”と呼ばれるほどの大酒呑みでしたが、使者という立場上、これを断ります。しかし、正則は「呑み干せたら褒美に好きなものを何でもやる」と無理強いし、固辞する太兵衛に「黒田武士は酒に弱い、酔えば何の役にも立たない」などと暴言を吐く始末。自分のことならまだしも、家名を辱められては黙っていられません。太兵衛は大盃になみなみと注がれた酒を一気に呑み干し、正則が豊臣秀吉から与えられた名槍『日本号』を呑み取りました。これが『黒田節』に歌われたエピソードなのです。そんな剛毅な男・母里太兵衛は、長政が関ヶ原の戦いの功績で筑前を与えられると、豊前との国境付近に置かれた筑前六端城の一つである鷹取城の城主となります。同じく六端城の一つ、嘉麻の益富城は後藤又兵衛が城主となりますが、又兵衛は長政との不仲が元で出奔してしまったため、太兵衛がここに移り、大隈の町(旧嘉穂町)を治めました。

 

麟翁寺
境内には太兵衛と子、孫の墓があり、法要のために描かれた太兵衛晩年の肖像画は、毎年6月6日の太兵衛の命日だけ公開される。写真は益富城の搦手門を移築した麟翁寺の山門

 

 

なお、又兵衛は長政の妨害で他家へ仕官することもできず、浪人生活を送ります。1614(慶長19)年に大坂の役が始まると真田信繁(幸村)らと共に大坂方に招かれて戦いますが、翌年の大坂夏の陣の際、信繁らとの協同作戦で連携がうまくいかず、討ち死にしてしまいました。その一ヵ月後後、嘉麻では太兵衛が60歳で亡くなり、大隈の麟翁寺に葬られました。また、豊臣家を滅ぼした徳川幕府は、この年、大名の居城以外の城はすべて破却せよという一国一城令を発布。益富城は取り壊されて、廃城となりました。益富城の搦手門は移築されて、麟翁寺の山門になっています。また、大手門は嘉麻市上西郷の善照寺に移築されています。

 

【黒田家ゆかりのみやげ】

嘉麻市の礎を築いた母里太兵衛や

後藤又兵衛の心意気に想いを馳せる、武将ゆかりの品々!

 

黒田武士 特撰大吟醸酒(720ml 2805円)

母里太兵衛の「酒を愛する心」を今に伝える大里酒造では、「気配りの手造り」にこだわり、黒田武士の名を冠した銘酒をつくり続けている。販売所には名槍・日本号のレプリカも飾られている

大里酒造 問:0948-57-0059


 

又兵衛饅頭(1個97円)

益富城址の麓、国道211号沿いにある大屋菓子店。保存料を一切使用せず、昔ながらの製法で手作りする又兵衛饅頭は、国産の白てぼ豆だけで作る餡をしっとりした皮で包んでいる。素朴なのに上品な味わい

 

大屋菓子店 問:0948-57-1115


掲載の内容は取材時のものです。取材日と記事公開日は異なる場合があり、メニューや価格、営業時間、定休日など取材時と異なる場合がありますので、事前に公式HPやお問い合わせにてご確認をお願いします。

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